生活
いつの間にか、そちらからこちらへとやってきて、この場とは一体、そして、あの場とは一体。座って眺めていたその向こう側を幾人もの人々が過ぎ去っていった。そのうち何人がまた戻ってきただろうか。そんなこと考えも及ばなかったその時点を、今になって振り返って、そしてなぞってみる。きっと見落としてしまったものがあるに違いないと、そして、どこかへ紛失してしまったものも、付け足してしまったものも、あるに違いない。
ぬかるみの上を歩くようでと、その様子を眺めて表現した人がいるのかもしれない。しかし、その本人にしてみれば、それがどのような状態なのかははっきりとは分かってはいない。ぬかるみがそこに在るのか。ただ、足が震えているのか。
少しずつ景色は変化していった。そのそれぞれの景色を写真に納めて、そして、アルバムにその変化が分かるように並べた。その写真は、今何処にあるのかは分からない。しかし、そのような作業をしたという記憶によって、その情景の変化を今も認識できる。
それは、何という自由さだったのだろうか、それは、何という苦痛だったのだろうか。物事は自然と漠然としていった。何もかもが平等となってしまったかのようで、そうであるが故に、困惑し規則に意味もなくしがみつこうとした。しかし、それはあまりにも次元の異なる現象であったが故にやがて、完全に意味を失った。否定にしたところで、肯定にしたところで。例えば、痛いという感覚ですら本当なのか嘘なのか。その本当であるとか、嘘であるとかいう概念ですら一体意味をなすのかどうか。すると、そこに在る違和感こそがもっとも身近な感覚となってしまったとしても、不思議ではないのかもしれない。
存在の踏み台とは一体。この外にある世界とは。その内側とは。腕をよじる。自分で可能な限りによじる。関節の限界が痛みよりも先に来る。
木という役柄は、どのように演じられるべきなのだろうか。そこにじっとして、そして、合図に合わせて風になびくように動作をすればいいのだろうか。木がどのようにして風になびくのか。風が到達してそして、通り過ぎる。到達した瞬間に動き始めて、通り過ぎた瞬間に動き止めるというわけでもないだろう。それに、この木はしゃべることになっている。しゃべる木は、どのように演技されればいいのだろうか。分からなかった。分からないと答えようかとも思った。それとなくやってみた。時間はただ過ぎていった。
きっともっとそのようなことを悩み続けていれば良かったのだろう。そのようなことがきっとそのときにやるべきことであったに違いない。いや、今でもそうであろう。例えば頭の位置は何処に在るのかと考えてみよう。生きている限り、土の中に埋もれてしまっているというようなことはないはずだ。生きている限り。何処まで生きていて、何処まで死んでいるのか。自意識の消滅した状態。心臓の停止。脳の停止。それとも、もしかして、今のこの状態は既に死なのだろうか。存在をそれほどの疑いを持たぬままに生活するというその状態。それとも、復活の可能性だろうか。いや、止めよう。その全てが無に至るのだ。
空間があり、時間が貫いていく。その存在についての思考は、非生存的行為のようでありながら、回り回って生き残ることに通じているのだろうか。存在の密度。存在の永続性。重心を一点に集中させることよりも分散させておくことの方が自由である。格子構造に安定すべきなのかもしれない。

