dLINKbRING powered by Rogi073
サイト内検索

About

記号である言葉。それらが並べられていくと、そこにはまた違う記号的意味が浮かんでくる。その言語の力を最大限に利用しながら様々な感覚を描写したいと、その試みが生み出した幾ばくかの文章をものをここに提示していければと。月一作程度のペースで、文字数にして1000字程度の短文をベースとして、公開しています。

2010/08/29

混乱したテキスト

 テキストすら紙の上を滑っていくだけ。感情は、テキストに結実することすらできないほどに、混乱している。すべてのものが、ぼろぼろと、ばらばらに分裂していって、どこに何をどうすればいいのか。そう、何一つ手がかりを失ってしまったかのようなこの気分を前にして。
 閉鎖されていく。希望が。目的地は一体、どこに行ってしまったのだろうか。もはや、そんなところさえ、どうでもよくて。この嵐を避けようと、ただ、それが、通り過ぎていくのだけを待とうと。おそらく、嵐が過ぎ去った後には、そこには、ただ荒れ放題になった大地が放置されているに過ぎないのだろうけれども、最早、未来の悲劇を考えている余裕などもない。今さえよければ。未来は、やがて、どうにかなるだろうと。いや、どうにかなるかどうかなんて、どうでもいいんだ。
 それでも、失踪しようとした意思が挫けてしまった。必死に進みに進んでも、強力に引っ張り戻されて。勢いをそがれてしまう。
 そして、テキストは、混乱する。もう、何一つ整理できていない。必死にきれいに並べたはずのページが、また、散乱してしまって、テキストがつながっていかない。まるで、未来と過去が混乱してしまっているかのように。考えが入り乱れて、口の先にでかかったテキストが、しかし、一体どの脳の要求に対するテキストなのかが、不明確になり、そして、そのテキストそのものが消尽してしまう。どこにいたのか、私の意志は、どこに行ったのか、私の思いは。ただ、もやもやとしてものが、内面を支配していて、しかし、それを描写することはまったくの不可能な状態になり、そして、テキストは座礁する。
 されうがままという、その状態だろうか。抵抗の意思も挫けて、希望ではないだろうものに、希望と名づけてみているとでもいうのか。何度となくくみ上げたとしても、そして、また嵐がすべてを吹き飛ばしていってしまう。茫然自失の表情からは、確かに、もう、言葉など出てこないものかもしれない。
 そして、無意味が支配する。混乱したテキストは、そのテキストの本来の目的であるはずの意味を伝達するということが不可能になり、無意味のテキストとなる。確かに、テキストの並びであって、文法上の明確な過ちがそこにあるわけではないのに、伝わることのないテキスト。それは、もしくは、共感不可能なテキストと呼ぶべきだろうか。しかし、もしかすると、共感することのできる人がいるかもしれない。その無意味なテキストに、しかし、こめられている、その感情を理解することが。
 そして、まるで祈るような姿をしている。嵐に襲われている最中も、そして、嵐が通り過ぎたあとも。そのほかに術がないのか。お手上げ状態で受け入れるのであれば、せめて、神にでもすがってみようかと。
 その意味をつかみきれないテキストは、それとも、神との交信ということなのだろうか。テキストにならないテキストを並べ立てる。困惑が滲み出してくる。散乱したままであるかのように思われる、そのページは、しかし、その困惑のためにむしろ、整然と並べられたテキストの羅列となっているのかもしれない。その状態こそが、意味する何かのために。

2010/07/14

私の核

 気づくと、泥沼にはまり込み、こんなはずじゃなかったとつぶやく。どこに、何が。むしろ慎重すぎるぐらいに進んできた道であったはずなのに。もし、私に落ち度があったというならば、是非とも指摘して欲しい。結局、疲労ばかりが溜まって、そして、やるせなさに押しつぶされそうになるだけであるのかと思うと。もう一歩も動けそうにな、その泥沼を、それでも、一歩、一歩と進んでいる。いや、きっと進んでいないのだろう、ただ、沈まないようにするためだけに、方向の検討などもつけることなく、ただ、足を引き抜いては前に出し、横に出し、それを繰り返すのみ。体中から体力が奪われていく。そして、それ以上に気力が奪われていく。時に、それが意味ないそれでも、晴れた日の散歩であれば、心地よさを感じることができるのであろうが、しかし、この状況に置けるこの意味のなさは、感情を破壊してしまうに足るそれであって。
 しかし、何故と、そう問わないではいられない。もし、私に落ち度があったというならば、是非とも指摘して欲しい。もし、ここを抜け出すことができたならば、今度は、神を信じることにしようか。お祈りを繰り返し、その誠意を神に伝えればと、今までの、何一つ信じようとしないこの自分をうち捨てて。それほどまでに、もはや、術を見いだすことができない。この茫然自失。勿論、終着点があることを期待していたわけではない。終着点など無いままに、歩き続けるだけだと言うことぐらいは、もういやと言うほど認識していた。そして、その歩く道程において、ちょっとした苦しみや悲しみや喜びや楽しみがあるに過ぎないと、だから、そのように振る舞おうとしてきたつもりだった。それとも、どこかで多くを求めすぎたのだろうか。わからない。少なくとも、私自身が可能なことは可能な限りに努力してきたつもりではある。しかし、結局また、かつてなんとか抜け出したはずの泥沼に、はまり込んでいる。勿論、それは、かつてのそれとは異なるそれではあるのだけれども、しかし、十分に似ている。私には、まだここから脱出する力は残されているだろうか。
 扉を閉める。必死になって、開けた扉を今度は閉める。この場所の中に戻る。その時に私が見つけ出した、その場所の中に戻る。元来、ここにしか、存在場所がない存在なのかもしれない。外に出て行こうという努めこそが、過ちの努めだったのかもしれない。結局それは、薄膜の向こう側にしか過ぎなくて、その向こう側にたどり着いたと思っていたのは、それは幻想にしか過ぎなくて。だから、その向こう側でいくら努めてみても、結局は何もそこに見いだすことができないのだと。こちら側で生きていくしかないのだよと、まるで、諭されているようでもある。これが、一時避難になるのかどうかはわからないけれども、少なくともしばらくはここにあるべきなのだろう。母艦から離れすぎたせいで、ガス欠に陥ったということなのかもしれない。なんとか、母艦に帰還することができたことだけでも、幸運であると思う方が適切かもしれない。
 そして、この中にいる。確かに、心地よい。まるで、自分の皮膚のようなその場所。驚くほどに心地よい。安堵感が感情を支配する。その薄膜の向こう側をそのような場所として認識できるような存在とは、やはり、異なる存在であるのだと。私のこの核。少しずつ再生していく自分を感じる。それでも、めげずにまた扉を開けて、旅立つことになるのだろうと、思え始めている。

2010/06/19

夕暮れの土手

 その景色は、どこで、記憶にとどめたのだろうか。夕暮れの土手を、自転車で走り抜けている。心地よい風と汗が、肌を滑っていく。どこにも、憂いを感じない瞬間、どこにも、悲しみを感じない瞬間。何もかもから解放されて、その空間を味わい尽くせそうなそんな感覚に浸って。心は、驚くほどに解放されている。何一つ、気を奪われることはなくて、そして、誰かが、そっと見守ってくれている。何かがあれば、そこに逃げ込めばいい。
 その景色は、しかし、どこにあるのだろうか。その場所に、たどり着けるものならば、たどり着きたいと。乾いた大地だけが、足下にあって。疲労に溶け落ちてしまいそうになる足と、汗と汚れでどろどろになった肌と。この体を洗う気力もなければ、洗う手段すらもない。しかし、最後の活力だけは失ってはなるまいと。それでも、彼は、立ち続けていられるだろうか。
 あらゆるところを探していてみる。どこかに、その場所は、無いものかと。どこかに、そのものはないものかと。何かが、内蔵に引っかかっていて、常に、切迫感を押しつけてくる。その、何かを、解消してくれる何かは、無いものかと。高揚を感じようとする。何かの中に落ち込んでしまって、全てを忘れようとする。全ての感覚を奪い取ってしまうような何かに、身を捧げてしまおうとする。
 何も、無い。ただ、この体があるのみで。震えが、止まらない。そして、何も所持していない。何かが、終わりを告げる。何が、終わりを告げるのか。違う、終わりを告げたいという思いに駆られる。それが事実であって、しかし、終わりを告げることすらできない。逃げても、逃げても、変化は訪れない。逃げても、逃げても、囲まれ続けている。だったら、捕まえてくれればいいのだと、しかし、捕まえられるいわれもなければ、捕まえる理由もないのだと、であれば、何故なのか、何故そうまでして、追いかけてくるのか。
 ならば、逃げないことを選択するのかと。まんじりとして動かず。もう、何もいらない。もう、何も求めない。ひたすらに、空を目指して。山の中に、小さな庵を建てて、その中にこもってしまえば。そこで、一体何を行うのか。ひたすらに、耐える。その行為を耐えると表現しなくてよくなるまで。日々、生活を単純化して、もう、何も求めるものなんて無い状態にする。そして、今日も明日も変わりのない日々が訪れたときに、過去さえも変わりが無くなり、持っている憂いの全てが償却されるということだろうか。
 進むしかない。ぼろぼろに崩れ落ちていきそうであるとしても、進みゆくしかない。ぼろぼろに砕け落ちる危険性をはらんでいたとしても。逃げ場がないのだから、突き進んでいくしかなくて。もうどこにもたどり着くことができないかもしれないと思ったところで、元々、どこにも場所なんて、保持していなかったではないかと。
 乾きすぎた大地は、あまりにも、もろくて、踏みしめるごとに、ぼろぼろと崩れ落ちていくのだけれども、しかし、そこに何とか踏ん張って、次の一歩を継ぎ足していく。時に脳を横切る夕暮れの土手の姿が、それは、過去のどこ何あったのではなくて、いつしか出会えるはずの場所であると理解して、そして、突き進む。他に選択肢はないのだから。

2010/04/12

棒の細さ

 細長い、一本の棒。風雨にさらされて、今にも折れてしまいそうで。だから、一歩進んでは、少しとどまる。少しでも、バランスを崩せば、そのまま、ポキリと。
 それとも、この荷物が重すぎるのだろうか。相対的なバランスが崩れているのは確かなのだろうけれども、その要因がどちらにあるのかと問われれば、定かではない。
 その重さを反動に、また少し進む。空気が薄くなってきているのだろうか、横隔膜がうわずっていて、少しばかり、息が苦しい。脳もまた、呆然としはじめている。急いで進んだ方がいいだろうけれども、かといって、急ぎすぎれば、ポキリと折れてしまう、このか細い一本の棒では。とにかく、落ち着けるしかないと、可能なことを最大限に、全てが終わりになってしまわないように。
 そこに、わずかながらの暖かさが感じられた小雨が、今は、冷たい雨に変わっている。進もうとする、わずかに残っているこの感情をへし折ろうとするかのようで。じっと耐える。息を殺すようにして。それと同時に、慌てて息を吸い込もうする横隔膜をも、なんとか制御してしまおうと。
 混乱が、脳の中に乱れ込んでくる。記憶が、感情をあおる。この一本の棒を維持したまま進むことに全力を投じるべき時に、しかし、脳はこの風雨以上の混乱の嵐に晒されている。いくらでも、可能なことがあったのだろ。もしくは、別の選択肢であれば。今、ここに、こうしているということに対して。これを招いたのは一体。いくつもの、経路が絡み合って、そして、最悪の結果を生み出したと言うことは、それは、何故なのだろうかと。一つの現象がそこにあって、それに対して、対処すべき人物がいて。そして、それは往々にして、一対一対応ではなくて、多対多対応であって。すると、一対一対応であっても、そこには、判断の混乱があって、しかし、それが多対多対応の場合には、相互干渉が起こって。そして、お互いにたたきのめしあい、いつしか、正論であるはずの主張が、根本から方向をねじ曲げられていて、しかし、そのことに気遣い無いままに主張し続けた正論は、結局間違った方向へのベクトルとなってしまっていて、そして、結果としては、主張が通じたにもかかわらず、最悪の結果がそこに生じていると。よっぽど注意深く、制御しなければ、止揚は成立しなくて、相互に打ち消しあうに過ぎない。その打ち消しあいの狭間が、それが当事者同士の問題に過ぎないのであれば、何のことはないのだけれども、多くの場合には、その打ち消しあいの狭間には、別の多くの存在が存在していて。混乱が波及していく。物事は、間違った方向へと進みながら、やがて、一体感を失い、ばらばらとなった流れが、逆流して、そして、その打ち消しあいを生み出した人々へと襲いかかっていく。しかし、その人々はそれがどこを発端にしていたのかに気づかないが故に、圧迫を選択する。すると、そこでは、今度は異なる次元での一対多対応の混乱が生じる。そうなると、もう全てが終わりになってしまうのだと。
 そして、そっと逃亡する。そんな場所には、もう、耐えきれないと。多くのものを捨て去って、しかし、捨ててはいけない荷物だけを抱えて。一本のか細い棒として、荷物を抱えて。そして、本通りを進めないが故に、荒野のような、山道のような場所を抜けていかなければならないと。例え、そこには風雨を避けるための場所も無ければ、風雨によってあっという間に悪路になる道しかないとしても。
 じっと、身を固める。一呼吸、大きくすって、大きくはき出す。美しきものが、そこかしこに見えるような気がする。多くの人が注目しては以内それであっても。それに励まされるようにして、荷物をもう一度抱え直す。息を整える。いずれ万全であることなど無いのであるならば、それをも肯定して、また一歩とポキリと折れてしまわないように用心しながら進むしかないのだと。

2010/03/08

平面の矛盾

 そこにある、どこまでも広がる平面。さて、これが正しいのかどうかすら、はっきりとはしない。おそらくは、正しくないのだろうと思う。先にそこにそれが用意されていて、そこに参加しているわけではない。その平面とともに現れたとしか、いいようがないのだろう。現れたというべきなのかどうかすら、はっきとはしない。ただ、いずれにせよ、その平面とともに存在しているという現在は、事実であると断言することは、せめて許され宇野ではないのだろうか。そうであるが故なのか、それとも、そうではないのかもしれないけれども、その平面を見たことのある人は、誰もいない。もう少し正確に表現するのであれば、その平面をその平面の状態で見たことのある人は、誰もいないというべきか。常にゆがんでいる。その鑑賞者によって、それは、ゆがんでいる。鑑賞者には、常に限界がある。全ての範囲に焦点を合わせることはできない。それぞれの鑑賞者の脳は、実際のところ、どこまで認識できているのだろうか。そのいくつかは、脳が作り出した幻影かもしれない、たとえ、全てに焦点を合わせることができていたとしても。しかし、それが、鑑賞者にとっては、唯一のその平面の認識であるのだから。だから、それは、異なる、鑑賞者によって。平面はゆがみ、破れ、ぼやけている。しかし、それであっても、それは、鑑賞者本人にとっては、しっかりとした平面であって、しかし、もしそれが可能であるとして、別の鑑賞者の平面と比較してみれば、その間に大きな差異があることを理解することができるだろう。いや、別に比較するまでもない。少し、話をすれば、すでに、そこに大きな差異があることなど、簡単に認識できるに違いない。もしかすると、大同小異として、許せるかもしれないし、まったくもって受け入れることができないかもしれない。いずれにせよ、しかし、常に、自分の平面が基準になる。その平面の像は、どのようにして形成されたのだろうか。別の個体として、存在するようになった瞬間から、その個体の特質よって、大まかに決定されてしまっており、そして、そこから、また平面の変容が始まる。そう、例え、同じ鑑賞者であったとしても、同じ平面の像を持ち続けるわけではなくて、それは、変化に変化を遂げていく。そして、時に、別の鑑賞者の影響を受けて、そして、時に、別の鑑賞者に影響を与えて、そして、当然のことながら、ただの鑑賞者というだけではなくて、その平面の参加者である以上、その平面自体にも影響を与え続ける。平面は、つまり、果てしない循環参照に晒されていて、常に矛盾を抱え込んでいる。その矛盾の間隙にこそ、存在が存在していて、その矛盾の間隙に猛然と走り込んでいくしかないと。そして、多くの場合、鑑賞者の持つ平面は、その変化について行くことができないために、その平面と軋轢を起こしてしまい、鑑賞者を打ちのめしてしまうときさえあって、そう、時にいくつかの鑑賞者は、その平面とはあまりにも違い過ぎてしまうときがあるが故に。しかし、実のところ、その平面とあまりにも違うということは無いということもまた真であって、つまり、その平面はそこには、最初から用意されているものではないが故に。食い違うように見えながらも、しかし、それもまた、認識に問題に過ぎないのであって、そう、つまり、循環参照にであるのだから。だから、そっとの、その間に粘着質のインターフェイスをそっと挟んでみる。少々の軋轢などは、少々の矛盾の間隙などは、吸収してしまってくれるようなそれを。そして、そうやって、この平面の上に生き残っていくのだと。

Bookmarks

Google Search

AMAZON Search

Sponsored Link


dLINKbRING powered by Rogi073
Creative Commons License

このサイト(http://www.dlinkbring.com以下のサイト)掲載データのうち、APIなどにより取得されたデータ以外のサイト作者による記事は、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの下でライセンスされています。

Valid CSS!