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ワット

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1.概要

サミュエル・ベケット。20世紀を代表する劇作家・作家であるサミュエル・ベケット。物語性が完全に欠如した不条理の世界を演劇や小説において構築した人物。何も事件の起きないまま、まるで禅問答のような無理問答が続くのみ。作品の舞台も最小限に絞り込まれ、そのもつ固有性が失われた世界。それは、舞台のみならず、登場人物にしても同様に。故郷から伝統から切り離された現代の状況を端的に描いているともいえるし、その切り離された状態における存在の強さをむしろ表現しているかのようにも思える。しかし、その真意はというと、まるで何も語らない作品ばかり。ただ、読者はその何も掴む事が出来ないような不安な世界を、混乱のままに感じるしかないが、しかし、時にその何も語らない世界が何かを示唆しているように思える時もある。

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1.1 ワット

そのサミュエル・ベケット作品の中から、「ワット」をここでは取り上げる。この作品の後に、初期小説三部作を完成させ、さらに戯曲「ゴドーを街ながら」を完成させる。つまり、この作品はサミュエル・ベケットの作風がまさに構築されつつあった時期に書かれた作品ともいえる。であるが故に、実験性も多分にすり込まれた作品でもある。ちなみに、この作品を書いていた頃、戦争の影響もあって、サミュエル・ベケットは各地を逃走しながらという状態であった。詳しくは、ベケット伝に書かれている。

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2.作品

ここから、作品”ワット”の私なりの読みをまとめていこうと思う。構成としては、まず作品全体を眺めて、作品の特徴をまとめるところからはじめて、次にその作品の特徴的な部分を手がかりに、その構造とその意味するところを分解していく。そして、最後は私自身がこの作品を読んで何を感じたかを記述する。

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2.1 まずは概略を

早速、作品の内容を見ていこうと思うが、まず最初に大枠としてこの作品がどのような特徴を持っているかについてまとめる。

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2.1.1 構成

全体は、4部構成で構成される。

ワットの登場と電車での移動

ノット氏邸への到着とそこでの生活

病院においてワットがサムに語ったノット氏邸での生活

ノット氏邸を後にしてたどり着いた駅での出来事

このような章構成になっているのだが、この構成が若干ひねりが加えられている。メタ小説的な議論をすれば、この作品を記述者は一体誰なのかという問題が残るという点。このあたりの記述者は誰かという点については、安部公房による「箱男」がこの論点も利用しながら作品を構成する事に成功しているし、多くの作家が議論にしているところでもある。この作品でも少なからずその要素がある。それから、これは作品の中にも記述されているのだが、章構成の順番と時間的な順番に狂いがある、いや小説中での記述にも狂いがある。これもこの作品の面白い点である。

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2.1.2 舞台

次に小説の舞台。サミュエル・ベケット作品については常にそうであるのだが、舞台がよくわからない。ここでは、中心となるのは、ワットが長く滞在する事になるノット氏邸。このノット氏邸にて、ワットはノット氏の世話係であるかのような生活をするのだが、ノット氏が一体何者なのか、そして、なんのために世話をするのかについては不明。ただし、作品の最終版部分にノット氏に関する重要な記述があるようによみとれれる。このあたりの記述からノット氏についての議論を進めることで、この作品の謎に挑む手がかりにしたい。

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2.1.3 文体

文体もまた、通常の小説、いや、通常のテキストからは、かけ離れている。しばらく読むと間違いなく気づく特徴が過剰な順列組み合わせによる表現である。おそらく、一般的な読者からすれば、このような文章はまず見た事が無いだろう。しかし、この順列組み合わせが作品の至る所に登場して、かなりの文字数をこの順列組み合わせが締めている。この順列組み合わせによる記述については、ジル・ドゥルーズが「消尽したもの」のなかでも言及しているのだけれども、とても重要な視点が含まれていると思う。

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2.2 三種類の視点から解題してみる

先述した、3種類の特徴、”構成”、”舞台”、”文体”。この3種類の特徴を手がかりに作品を読み進めていこうと思う。

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2.2.1 誰が書いているのか

多分、これが最も軽い話題だとおもうので、ここから。

四章の最初に、”二、一、四、三、これがワットの話の順序であった”という記述がある。これが、なんとも、また惑わせるところ。まず、この語った相手がよくわからない。サムなのだろうか?そして、実際の作品の構成からすると、「一、二、四、三」が時間軸にのった順番と思える。ということは、これは、ワットが誰かに対して語った順番は、「二、一、四、三」であるけれど、それを聞いた人物はそれを、「一、二、四、三」の順番で記述したと捉えるべきなのだろうか。さらに、四章の最後の場面ではワットに関する記述が無くなってしまう。ワットは電車に乗ったのかどうかさえわからない。話しの順番からすると、このあと、三章で登場する病院にワットがたどり着くはずなのだけれど。

全く不可解。そして、そこには可能性だけが残される。そして、可能性だけが残されるという事はどういうことかというと、後ほど言及する、順列組み合わせが残されるという事になる。まず、本当の物語の章構成の順番はどうなのかについて。既に二つの可能性が示唆されているが他の可能性について検証するとどうなるのか。さらに、ワットが語った相手、そして、そのワットが語った内容を記述した人物。ここにもまた膨大な順列組み合わせの可能性が内包されている。究極的には、全ての章が別の人間によって記述されている可能性まであるのだから。いや、もっといえば、”二、一、四、三、これがワットの話の順序であった”といっている「二、一、四、三」がそもそも、この作品の四章構成と関連付いているのかどうかというと確証がないという現実もある。

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2.2.1.1 各章について考えてみる

こうなると、各章について再度検証してみないと訳がわからない。

第一章。遠くに目撃されるワット。そのワットが電車での移動とノット氏邸への到着そして、ノット氏邸についての説明をアースキンから受けるワット。

第二章。ノット氏邸での前期、1階での生活についての記述。そして、アースキンの旅立ち。

第三章。精神病院のサム。そのサムが似たもの同士であるワットに遭遇し、そして、ワットからノット氏邸での後期、2階での生活を聞く。ただし、ワットは、過剰な逆さ言葉とその逆さ言葉の倒置法が順列組み合わせにより次々に変化していくという語り口で語る。

第四章。ノット氏邸を出るワット。そして、駅にたどり着き。切符を買う。

という具合なので、よくよく考えると、全体の章を「一、二、三、四」とそのまま読めば、ワットのノット氏邸への到着から、1階での生活、2階での生活、旅立ちが、通常の時間軸にのってくるということになる。と、なると、全体構成を混乱させる要因は第三章にある。この第三章によって、この作品の奥行きが形成されているといっても良いだろう。つまり、平面的な広がりは、「一、二、三、四」全ての章を通じて形成されていて、奥行き方向はこの第三章が担っている。

確かに、この第三章についていえば、構成の次数が上がっている。他の三つの章では、誰かがワットのことを書いているという構成であるが、この第三章では、明らかにサムがワットから聞いた内容、しかも順列組み合わせの逆さ言葉の末に聞き取った内容を記述している。そして、まず最初にその聞き取り方法についての説明がなされた後に、その聞き取った内容を記述するという構成となっており、聞き取った内容ではなく聞き取った方法を記述するというひとつ次数が上の部分を記述していることになる。続いて、その内容を記述することで、そこから、また次数が元に戻る。しかし、またここから話がややこしくなる。まず、ワットの語った内容を記述しているのがサムという構造が底辺にある。ここで語られる内容は、ある日のノット氏邸での四人ノット氏、ワット、アーサー、グレイヴス氏。そして、その場所でアーサーがグレイヴス氏に対して話した内容。そして、アーサーが話すのは、アーネスト・ルイの話。ルイがナッキバル氏を連れて、質問を受ける場面。この時点で、話しがかなりややこしくて、何度も伝言の過程が間に挟まれている事になる。しかも、話の内容は極度に数字と計算が絡んでくる3乗根の話しであるのだから。

ちなみに、この3乗根についても、少々話しがややこしくなっているように感じる。ここは、ちょっと読み切れていないからかもしれないが、5人の人物の行動の可能性についての言及と3乗根の計算能力の話しが、本来は同じ次元で語られていないはずの作品内での行動とその行動を説明するための表現が同じ次元であるかのように表現されているようにも読める気がする。ここにも、記述する事についての言及が見えるように思える。

さらに、もう一つややこしいところは、ルイに対する言及は、もともと、バンドーの話しを使用としたアーサーが事例として出してきたのだが、実際には、バンドーとルイの関連性にたどり着く前に、アーサーが話しを止めてしまうという本来伝達しようとした事と実際に伝達した事のずれもが表現されている。

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2.2.1.2 伝達不可能性

それはさておき、この一連の記述を読むと、言葉の伝達ということに対するある種の疑念のようなものが入り込んでいるような気がしてくる。まず、逆さ言葉によってワットがサムに対して語った内容であり、その内容は、アーサーがクレイヴス氏に対し語ったことであり、さらに、その語った内容は登場人物が多くてかつ大量の数字と計算が登場する話しであり、さらにここでも順列組み合わせが多用される。これは、あきらかに本来であれば伝達不可能な内容である。そのような内容を伝達された事項として記述するという事。それは、サムの狂気がなせる技なのか。というよりも、そもそも伝達(コミュニケーション)のもつ不確実性に対してのアンチテーゼとさえも思えてくる。

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2.2.1.3 読解が順列組み合わせに陥る

先述したが、このように追いかけていっても、追いつく事は出来ない。誰がどの章を語っていて、どの文章が誰から誰に伝達されて、それが最終的にどのように記述されたのか。順列組み合わせはその伝達過程の何処で紛れ込んできたのか、それとも、そのように伝達されたものであるが故に、順列組み合わせが入らなければ記述できない状態になってしまっているのか。そして、章構成をどう捉えるべきかという最初の疑問に対しては、きっと、その順序のまま読むべきであるということであって、第三章が、しかし、その全体構成の奥行きを作りながら混沌も作り出していると捉えるべきではないだろうか。

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2.2.2 ノット氏は何者か

ノット氏についての考察を次に行おうと思うが、これは、先ほどの議論の延長として言及するべきと思う。というのも、先ほど言及した第三章のアーサーがグレイヴス氏に語るのを終了したところから始まる文章が多くのことを示している。

先ほど、アーサーがルイとバンドーとの関連性にたどり着くことなく話しを止めてしまったと説明したが、何故アーサーが話しを止めたのかについて、非常に興味深い記述がなされている。”ノット氏の家に戻りたい、その不可解さ、その凍りついた不変性に戻りたいと願ったからなのだ”。そして、”これほどの激しさをもって、不可解さが、凍りついた不変性が、不可解さの不変性が、心を突きのける場所は、またとなかった、ノット氏のいる場所のほかにはなかったからだ。”。そして、ここからさらにノット氏についてワットが語った内容が記述される。

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2.2.2.1 不可解、凍りついた、不変性

この言葉を如何に解釈すればいいのだろうか。不可解:理解に苦しむこと(大辞林より)。不変:変わらないこと(大辞林より)。勿論、本来ならば原文に戻って検討したいところだが、現在は手元にないのでとりあえず、日本語から攻める事にする。この意味を元に再度解釈すると、ノット氏のいる場所は、理解に苦しむ様子が変わらないである場所。という事になるのか。つまり、意味がわからない状態でありながらも、変わらずそのままであるということなのか。そして、そこにいるが故に、ルイの話しを持ち出したのだし、そこに戻るためにルイの話しを中途で止めたということになる。であれば、文字通り捉えれば、ルイについての話しは、不可解さや凍り付いた不変性とは異なるものであると捉えるべきという事になる。何がどのように異なるのだろうか。

このことについて、議論しようとすると、どうしても、順列組み合わせについて議論しなければならに。先述の通り、この順列組み合わせ自体が、一体どの伝達過程で発生したのかという疑問が解決されていないままでは、議論が困難となるところではあるが、ここでは、この順列組み合わせは、描写者側に起因するものではなく、被描写者側に起因するものと仮定する。

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2.2.3 順列組み合わせがいみすることとは

ここで、順列組み合わせの話題が出てきたので、ノット氏の話題から離れて、順列組み合わせについて考察する事にする。この議論が完了したところで、再度ノット氏について考察するほうが、より鮮明になるであろう。

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2.2.3.1 二種類の順列組み合わせ

なぜ、ここで順列組み合わせを持ち出すのかについてであるが、それは、ここで使用されている順列組み合わせについては、二種類存在するように思えるからである。一つ目は、あらゆる状態を想定し、その可能性の全てを記述するための、順列組み合わせ。もう一つは、同時間の事象を全て記述するための、順列組み合わせ。そして、この二つが何故別で議論されるかというと、この作品における大半の順列組み合わせは前者である。しかし、一方でアーサーが話したルイの話しについては、後者の順列組み合わせである。つまり、順列組み合わせのこの二者のちがいこそが、”その不可解さ、その凍りついた不変性”を分け隔てるものではないのかと考えるのである。

では、この二つのちがいは何かという、これは比較的明快であって、前者は状態が変化し続けて決定する事のできない事象、であって、後者は、状態変化を伴うけれども、そのことによって発生するのは一つだけの事象、であるということ。つまり、可能性の羅列と同時間現象の羅列の差異。たとえば、アーサーの語りの中で、評議者がお互いの目を見るというシーンは可能性の羅列ではなくて、その順列組み合わせによって、一つの事象が完了するのであり、さらに、それぞれの評議者が立ち去る場面についても、それぞれの行為が順番に進行していく場面を表現している。つまり、これらの順列組み合わせは、完了する物事を完全に記述するために使用されている。さらにいえば、ここでは計算が話題として取り上げられていて、これについても、計算という結果が一つに定まる物事についての言及である。これらのことから、ルイについての話しは、単一の結果をもたらす事象が描かれており、収束点へと向かう順列組み合わせであるように思える。一方で、その他の場面の順列組み合わせについては、何処まで発散する可能性を表現しているのではないだろうか。順列組み合わせを利用したとしても、それは表現し尽くす事の出来ない事象。例えば、ワットがサムに話す逆さ言葉のバリエーションについては、その可能性を全て網羅してしまおうというものである。しかし、これが本当に全てを網羅しているのだろうか。捉え方は二つあるだろう。全てを網羅してしまって、可能性が全て消尽されたと。もう一つは、そこまでやってもなお、まだ網羅する事が出来ない事象と。このいずれと捉えるべきかは、また後ほど議論する。

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2.2.4 再びノット氏は何者か

いずれにせよこの決定するための順列組み合わせと決定する事が困難な事象への対応としての順列組み合わせの差異があるように考えられる。そして、その後者が、”その不可解さ、その凍りついた不変性”ではないだろうか。そして、その決定する事が困難であるが、可能性だけは山ほどある、これがノット氏の特性といえるのではないのか。となると、つまり、順列組み合わせがどこで発生した都捉えるべきかという議論については、それは、サムによってではなくて、ノット氏の不可解さによって生み出されたと捉えるべきだろうか。

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2.2.5 再び順列組み合わせ

しかし、こう考えるとどこかつじつまが合わなくなる。ノット氏が絡まないところでもなお、順列組み合わせが存在するのであるから。となると、記述者に由来するのか、しかし、その記述者も、どうも、一定ではない。結局、この作品すべてに、メタとして捉えた部分にまでも、決定不可能性と可能性の氾濫、つまり、順列組み合わせが支配していると捉えるべきなのか。

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2.3 一体だからなんなのか

ある程度、内容を分解しながら、内容の解読を試みた。まだまだ、不完全ではあるが、五里霧中の状態から、少しは見通しがきくようになったのではないだろうか。そして、おそらく、この作品はこの程度の解読にとどめておくべきのように思う。そうなってしまう一因は、私自身のどっかり能力の限界という理由もあるが、そもそも、論理軸に展開する事の出来ない何かを表現しようとするのが文学であるし、芸術であるから、完全に説明が可能であるということはあり得ないし、完全にどころか、ある程度以上はもはや論理的な構築性ではなくて、緩やかに繋がる関連性のみが作品の中に埋め込まれているはずである。その緩やかなつながりをある部分をここデマでのところで、ようやく少し解説を加えてみたというところである。

それはさておき、ここからは、ではこのような非常になぞめいた構造を持つ作品が、だから何なのかについてまとめたい。ここまでの内容もかなり、私自身の勝手な解釈を元に進めてきたが、ここ以降はさらに非常に個人的な意見を、個人的にこの作品から感じた事、考える事を記述していこうと思う。

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2.3.1 なんとなくすばらしい

普通にこの作品を読んでまず引っかかってくるのは、先述した順列組み合わせであろう。そして、もう一つは舞台の不明確さ。この二つの表現が読者に何を引き起こすのか。私の場合は、まずその順列組み合わせに目がくらみ、そして、捉えきれない舞台の不明確さ故に、最初に読んだときには、ただただその表現手法の特異さに圧倒されて、その中で発生している様々な事件については、全く読む事が出来なかった。結局、そこで実際に起こっている様々な事件をある程度捉える事が出来たのは、3回ぐらい読んでようやくというレベル。これは、安部公房の箱男を読んだときもそうであったのだが、まず漠然とした感動があって、そして、何度も読むうちにその構造が理解できて、なるほどとさらに感動した。ここのところは、やはり、構造の理解とはまた別の何かの同意が、読書時の感銘に繋がるということだと思う。こう書くと先述のちょっとした解説の意味がないようにも思えてくるかもしれないが、それはそれとして意味があって、演繹的にではなくて、帰納的にここでは読み解こうとすると、このような視点からの分析になるという事である。

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2.3.2 選択多様性の感情

感覚的には、順列組み合わせによって提示された文章によって、感じるのは、そこにある何処までも広がる可能性という現実であった。時に、我々は様々な場面で、途方に暮れる。その一つの要因は、ある選択によって引き起こされる次なる現象を予測しきれないために、その選択が実際に何を引き起こすかが不明であると言うところに起因する。順列組み合わせの効果としては、この予測しきれない現実を順列組み合わせによって明確に示しているというところのように思う。また、一方で、全ての行動は常に選択によって成り立っている。その多くの行動は、しかし、明確な理由をもって選択されている場合ばかりではなくて、ひょっとしたら別の方法論でも良いかもしれないところを、ほかに大きな支障がないということもあり、なんとはなく、選択している。しかし、この何となくの選択が通用するのはどのような場合だろうか。それは、常にそのように行動しているからだとか、それが慣例だからという理由による。ただ、それが例えば日常行動から離れた場合には、その選択に対する確信が揺らぐ場合があるだろう。順列組み合わせの感情というのは、きっとそれまでの日常ではない場所において、ある種の選択をする場面に置かれた人間であれば、同意の感情を抱くのではないかと思う。つまり、順列組み合わせよって、現状、もしくは、未来への不確定による不安が表現されているようも感じるというのが個人的な感想である。

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2.3.3 何処までも広がる可能性と閉じる可能性

別の観点からすれば、文学空間においては、それが作者によって構築された空間である以上、その空間での出来事については、作者側に説明責任があるともいえる。この説明責任の部分を、順列組み合わせにしてしまう、ということ、そして、このことは、明確ではない作品舞台とも関連があって、明確ではない作品舞台であるが故に、作者の説明責任の結果として、順列組み合わせを選択するしかないというところもある。つまり、本来ならば構築された舞台もしくはほぼ現実のどこかを切り取った世界を文学世界に写し込み、その写し込んだ世界において、作品を構築する作家がほとんどであるのに対して、その舞台を最小限にして、そのことによって、引き起こされる説明必要を順列組み合わせで吸収するというのは、文学構造としては、転地的であるというか、まずは、その写し込みによる表現に対する疑念の提示であるし、その疑念に対する回答ともとれる。

この疑念が何故重要かというと、現実のどこかを写し込んだ世界での表現であれば、既にそこに在る現実を肯定するところから始まらなければならない。しかし、多くの場合、何らかの困難に直面している場合には、そもそも、その現実を肯定するという事自体に困難を感じる場合が多い。であれば、現実を肯定した上でその舞台の上でのメロドラマな展開には、何ら回答が見いだせないと読者が感じる場合も多いのではないだろうか。勿論、そういったものを要求する読者もいるだろうが、明らかに、この作品ではそのような読者に対しては書かれてはいない。その現実に対しても疑問を投げかけ、さらなる打開を見いだしたい読者にとっては、その既にある現実に対して疑念が必要不可欠だし、その疑念によってはじめて多くのものが開ける可能性があると感じるのではないかと思う。そのためには、まず現実を写し込むのではなく、その文学世界と現実をつなげるための最小限の舞台だけを用意することが作者に要求される事になるだろう。ベケットの場合は、その舞台の最小限化が晩年にはますます先鋭化されていったが、既にこの作品からそちら側へ進んでいたということである。

そして、その疑念により舞台を解放したが故に、本来固定されていたことも解放されて、そして、順列組み合わせが生み出されるという展開になる。この展開に対して、読者側の感想としては、その順列組み合わせに対して、途方にくれるという状態だろうか。少なくとも私がはじめて読んだときには、その順列組み合わせが示す何処までも広がるかのような可能性と、一方では、有限な可能性の提示により選択可能性の限界が強く印象に残って、そして、それこそがまさに現実なのだ、という発見に繋がり、非常に感動したというのが読後感であった。

そう、ここでは、あまり議論に乗せなかったが、順列組み合わせが示すのは、可能性の多様性だけではなくて、可能性の限界性、広がる可能清田へかではなくて、閉じていく可能性をも示している。ただ、この閉じる可能性についても、それは、可能性の欠如が失望へと変化するのではなくて、可能性の限界の理解によってはじめて可能になる現実の理解として捉えるべきだと思う。

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3 まとめ

いつものように、とりとめもない展開になってしまったけれど、今ひとつというか、全くと言っていいほど掴み所のない作品、サミュエル・ベケットの”ワット”に対して、私なりの感想と分析をまとめてみた。文学というのは、私の感覚では、理想的には現実にある全ての今回に疑いを投げかけて、現実のさらなる拡張を目指すものであり、その目標に対してテキストに強く依存して表現する行為だと思う。その観点で言えば、ベケットほどテキストにこだわった作家はいないのではないかと思っている。一見意味が混濁しているかのように思えるそのテキストには、あまりにも多様すぎる可能性が埋め込まれていて、しかし、その多様性が埋め込まれているというそのこと自体がメタ的な意味も有していて、とても平板に見えるテキストが持つ立体性、それこそがベケットのテキストのもつ強さだと思う。

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  • Book Review
  • ベケット伝   (2003) : biography,
  • 消尽したもの   (1994) : review,Book
  • ワット   (1953) : Novel,Book
  • このサイトにレビューを掲載しているもののみ表示しています。完全な作品リストではありません。

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