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「"徳川義宜"」の Wikipedia 検索結果
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徳川 義宜(とくがわ よしのり、1858年7月4日(安政5年5月24日)- 1875年(明治8年)11月24日)は、江戸時代末期の大名。尾張国尾張藩の第16代藩主(藩主としては最後の人物)。第14代藩主・徳川慶勝の三男。
幼名は元千代。名は義宣、徳成とも呼ばれる。号は松堂。第15代藩主・徳川茂徳が隠居したため(のち一橋家を継いで一橋茂栄となる)、元治元年(1864年)にわずか6歳で家督を継承し、第16代藩主に就任することとなった。官位は従三位。左近衛権中将。
しかし若いため、執政は父・慶勝によってほとんど成されたという。慶応4年(1868年)、戊辰戦争が起こると父と共に新政府軍に帰属し、新政府軍が東海道を江戸に向けて出征を開始すると、その先鋒を務めた。徳川慶喜隠居後の徳川宗家次期当主候補に擬せられたこともある。しかしもともと病弱だったため、父・慶勝の影に隠れ、主体性の薄い人物であった。そして明治8年(1875年)、18歳で若死にした。法号は隆徳院殿。号は靖公。
義宜の死後、父慶勝が尾張徳川家当主として復帰している。
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出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2008-07-24 22:44:54)
Text is available under GNU Free Documentation License.
[徳川義宜]の改定履歴
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幼名は元千代。名は義宣、徳成とも呼ばれる。号は松堂。第15代藩主・徳川茂徳が隠居したため(のち一橋家を継いで一橋茂栄となる)、元治元年(1864年)にわずか6歳で家督を継承し、第16代藩主に就任することとなった。官位は従三位。左近衛権中将。
しかし若いため、執政は父・慶勝によってほとんど成されたという。慶応4年(1868年)、戊辰戦争が起こると父と共に新政府軍に帰属し、新政府軍が東海道を江戸に向けて出征を開始すると、その先鋒を務めた。徳川慶喜隠居後の徳川宗家次期当主候補に擬せられたこともある。しかしもともと病弱だったため、父・慶勝の影に隠れ、主体性の薄い人物であった。そして明治8年(1875年)、18歳で若死にした。法号は隆徳院殿。号は靖公。
義宜の死後、父慶勝が尾張徳川家当主として復帰している。
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出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2008-07-24 22:44:54)
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